記事評:字面で勝負だ!かかってこいや!!

  

  週刊spa!7/26号に、京極夏彦氏のインタヴュー記事が掲載されていました。題して「重要なのは字面。ストーリーではない」というものです。
  まずは、この夏公開の映画「姑獲鳥の夏」に関連して、同映画の実相寺昭雄監督の過去作品、「ウルトラマン」、「怪奇大作戦」への京極氏の私的レスペクトに始まります。ここまでは、ありがちな公開中の映画の宣伝(言い換えればコラボレーション)的な「デキアガリ」記事なのですが・・・。話は流れて、京極氏の文章論へと進みます。


>(インタヴューアー)物語への思い入れは全くない?
>(京極氏)作者の思い入れや主張が強ければ強いほど、小説はダメになる気がする。
>パッションだけで書いたら、それこそ一夜漬けのラブレターですよ。


  これは、これは、思い切ったことを言ったものです。
  特に、雨後のタケノコ模様を呈している若手J文学の旗手や恋愛至上主義的メロドラマの書き手は、ギャフン!しちゃっているのではないでしょうか?あるいは、文壇の権威・重鎮さんたちは、腕組みをしながら、苦虫顔で「チンピラ野郎がなにいってんでぇ!そもそも文学ってぇのはなぁ−−−」と、怪気炎をあげているかもしれません。


  ただの素人本好きの私も、映像ソフトが溢れかえっている現在、かろうじての文字表現の優位性とはなんだろう?と考えてみました。
  教科書的には、文章の行間を読者が想像して読み解き、深々と「我はこう読み解くのだ!」という満足感を与えるような筆致でア〜ル!いやいや、真面目に書くと、読者に想像する余地を与える表現手段にあるのだと思います。
  例えば、レイモンド・カーヴァーの短編を読み終えた時の余韻。あるいは、以前紹介した飯嶋和一の「汝 ふたたび故郷へ帰れず」の息吹を感じる文体のジャブ。寂寞とした風景もカラーなアクションもないけれど、胸を鷲摑みされるような気迫が眼前に迫ってきます。筆の力です。


  そういうわけで、文字もまだまだ捨てたものではないよ、ということを私は言いたいのです。


p.s.
本文中の京極夏彦氏は、
文章の構成にこだわりがあることに定評があり、
ページをまたいでのセンテンスを排除するというこだわりは有名ですね。
本文で批判がましいことを書きましたが、京極堂シリーズの新作が待ち遠しいです。


p.s.
古い日本映画が好きな私は、
高倉健主演の「夜叉」という映画を観ました。
「うーん、これは映像でしか表現できない美しさである」
と感じ入ってしまったものです。最後まで、主張が不明瞭な私です。むぅ。