書評:飯嶋和一「汝 ふたたび故郷へ帰れず」第三回:ジャブの連打で

焼き魚を肴に晩酌する前に、昨日の続きを書かせてもらいます。

−−−

 さて本題に入ろう。
 まずは、次の引用を読んで欲しい。


>ヤツが打ち疲れ、右のガードが甘くなったところへ、おれは左のショート・ストレートを送った。
>確かに顔面をとらえたが、少しも効かないばかりか、逆にヤツの闘志をかきたてるハメになっ>た。
>やっと開いたおれのボディへ重い右をたたきつけて来た。息が出来なかった。
>次の返しの左フックでおれのマウスピースが飛んだ。しかもコーナーを背負っていた。
>そこで初めておれは、負けるんだなと思った。
>これで自分のキャリアが本当に終わるということを、その時おれは現実のものとして感じた。
>おれの中に何より強くしみついた負けることへの恐怖感が、脳味噌へ最後の信号を送った。


>またヤツが距離をつめて来た。
>自分の位置がつかみやすいリングのほぼ中央で、左へ回りながら下から突き上げるジャブを>立て続けに放った。
>真横へヤツが移動し、左右を振るって突進して来た。おれはバックステップでかわした。
>おれが左へ、ヤツも合わせた。ロープが近かった。サウスポーにスイッチするタイミングを見計>らった。
>タイミングをひとつ間違えれば、ひっくり返るのはおれの方だった。


 上記二つの引用は、それぞれ、別のリング上での戦いの一場面の描写である。
 畳み掛ける言葉、言葉・・・。言葉がジャブとして、息をつく間もなく、繰り出される。この緊迫感はどうだろう?硬質な文体で、留まることを知らずに読者を追いかけてくる。終始一貫して、この調子なのである。

 結論。スポーツ競技は、試合場に足を運び観戦することが、まずありきで、その拡散・大衆化としてテレビを始めとする映像媒体で、映像及び音声を通じて、受容される性格を持っている。ボクシングも例外ではない。むしろ、リングサイドで観戦した際に、目に映るファイターの飛び散る汗、観客席を覆う、むっと感じられる熱気は映像媒体では捕捉不能である点において、すべからく原初的なスポーツである。
 筆者は、その原初的なスポーツを見事に文字化してしまったのである。文字には、映像も音もなく、もちろん匂いもない。ともすれば、単調な情景描写に終始してしまう恐れがある。しかし、そんな危険な領域に、文体を武器にして果敢に切り込んだのである。
 私が、「汝 ふたたび故郷へ帰れず」は文体小説である、と断言した所以である。
 
 

 最後に、ジャブについて、的を射た定義を述べておこう。
 聖典:「あしたのジョー第一巻」(講談社コミック)」より引用します。


あしたのために(その1)=ジャブ=
攻撃の突破口を開くため
あるいは 敵の出足を止めるため
左パンチをこきざみに打つこと
(中略)
正確なジャブ三発に続く
右パンチは その威力を三倍に増すものなり


p.s.
この小説は、本文で述べましたように文体色をした小説です。
しかし、その単色だけで語られるべき安い小説ではありません。
主人公の挫折から成長への道筋を読者に訴える成長小説としての色合いも強く持っています。
一般的に言われるビルトゥングス・ロマンですね。
なお、当該ロマンが「教養小説」と今だに根強く称されているのは、どうもしっくりしません。