どこまで行くの〜♪:アノマリー現象について、その二。

 THE BLUE HEARTSの軌跡とバブル経済膨張・崩壊には、アノマリー(=奇妙な一致)があるという話の続きです。

 まず、THE BLUE HEARTSについておさらいをしましょう。
 彼らは、1985年2月に結成され、4月3日に初ライブを行い、12月24日に初ワンマンライブを行うと同時にソノシート「1985」を配布しています。初期における彼らのスタイルを端的に表現した名フレーズ「僕たちを縛りつけて、一人ぼっちにさせようとした全ての大人に感謝します。」は、この「1985」で唄われる歌詞であります(恋人たちの暖かい聖夜に「一人ぼっち」というのも心憎いですね)。THE BLUE HEARTSにとって1985年は、記念すべきデビューの年であり、初期鳴動の勢いで躍動した年であります。
 では、その年、社会では、何が起こったでしょうか?経済史の教科書を紐解くと、1985年、「プラザ合意」と太字で書かれています。解説を読むと、アメリカの貿易赤字の解消を目的に、ドル安を先進国みんなで実現しましょう、そして日本は、金融緩和(=金利引下げ等)を行い、お金をたっぷり垂れ流して内需拡大を図りなさいよ、ということが先進国G5の間で決められたのでアール、とあります。お金のだぼつき、すなわちバブルの発生ですね。
 当時、私は悩み多き花の高校生でしたので、バブルの恩恵をたっぷりと受けたわけではありません。しかし、年齢を偽りもぐりこんだ工事現場のアルバイト先での大盤振る舞いを思い起こすと、「豊かな」時代だったのだなあ、と実感します。

 こうして、良くも悪くもバブル経済の産声の中で、THE BLUE HEARTSは結成され、躍進していったのです。勢い留まる事を知らず、1987年、1stフルアルバム「THE BLUE HEARTS」を発表して、日本中の人々の度肝を抜き、うら若き少年少女を歓喜感涙の渦に巻き込みます。1988年には、自主制作で「チェルノブイリ」を発表し、多くの大人たちも彼らに注目するようになりました(彼らの素晴らしさを語る部分では、若干ながら主観的誇張が混じっていますが、「チェルノブイリ」の衝撃は、客観的にもとても大きなものだったと思います)。
  悲しいことに、社会では、チェルノブイリ事故等の環境破壊もなんのその、札束がばら撒かれ、バブルも順調にブクブクと膨らんで行きます。THE BLUE HEARTSに対して、サラリーマンや学生が、「トレーン、トレーン!走ってゆく〜〜」と叫ぶ景気づけソングとしての大きな需要はありましたが、黒人たちを乗せて豊かなシカゴを目指す北上列車の悲哀を歌う詩への共感はありませんでした。


 1989年。この年は、THE BLUE HEARTS、社会、いずれにとっても大きな転換点となった年であります。前者については、初の海外ツアーを行い、翌年90年には、彼ら最大のセールスを記録したシングル「情熱の薔薇」が発売されます。そして後者の社会情勢については、日経平均株価が、「五万円も夢ではないぞ、このヤロウ!」な気分が蔓延する中で、1989年12月は29日の大納会に、史上最高値3万8915円を記録します。この年の忘年会は、それはそれは、凄かったのだろうなあとしみじみと想像が膨らみます。

・・・続き(おそらく最終回)は、また後日に書かせていただきます。

参考文献:「ブルーハーツと日本のパンク」(別冊宝島、宝島社)

p.s.
実家に戻って、ちびっ子と遊ぶはずが、
風邪を引きかけているようで、やめにしました。
独り寂しく夕食を食べ終えたところです。皆さまもご自愛ください。